法学部長 神吉 尚男
私が高校の授業の中で問われた、今でも忘れず反芻している問題があります。それは、「自由とは何か」という問いでした。真面目な(!)生徒だった私は、即座に『決められたルールの中で、自分の判断に従ってふるまうこと』と、心の中で答えました。この解答に対照されているのは、『いっさいのルールに従うことなく、好き勝手にふるまうことである』という意見です。こんなことを恥ずかしげもなくしらっと言える人間が目の前にいたら、真面目な生徒としては正義感を燃え立たせ、ファイティング・ポーズをとったことでしょう(幸か不幸か、私も含めて誰も発言はしませんでした)。
さて、一見相反するような二つの見解ですが、よく見れば共通の前提に立って導き出されていることが分かります。つまりそれに従うか従わないかはさておき、ふるまう・行動する以前に、何かしら決められたルールがあるということです。その点をおさえれば、わがまま勝手でやりたい放題を「自由」とする、いかにもな後者の見解も、既存のルールを横目に、あるいは見ないふりをしてやるわけですから、実はその自由の観念を徹底できていない、突き抜けたものになっていないということになります。
法律は私たちが他者とともに日常生活を送っていくとき、それを少しでも円滑にするために設定された共通のルールの一形態といえます(そのほか礼儀作法や慣習、道徳、宗教なども同様に“潤滑油”の働きを示します)。そのように考えれば、現実的にも「自由」は決められたルールの中で享受されるもの、という判断の妥当性が見出される。さあこれで、「自由」をどう捉えるかという問題をめぐり、「正解」のようなものが見つかったと喜ぶのは……、まだ早い。
いま見たように、ルールの存在理由は他者と共存する際、それが円滑になるようにするためということでした。そうすると、決められたルールでかえって私たちの共存が軋みだし、どうにも塩梅が悪くなって生き辛くなってきたときは、どうしたらよいでしょうか。これまた現実を見れば分かりますが、ルールの見直し、改正、アップデート、バージョンアップがはかられます。そこに、私たちがルールを「創造する」神になれる瞬間が現れます。ルールなきところにルールを作り出すという意味で。ルールを法律と考えれば、この創造の働きを担うのが、政治です。自分たちの手で、自分たちが従うルールを作り変えることができる。つまりそのような立法行為・政治の働きがあって、私たちはほんとうに「自由」たりえるといえるのではないでしょうか。
というわけで、本学法学部に入学された皆さんも、ぜひ「自由」を満喫していただきたいと望んでやみません。皆さんの日々新たに更新される新鮮な問題意識とチャレンジ精神が、個々の法律の生まれた経緯や実際の運用のされ方についての学びを後押しし、背景にある人間そのものへの透明なまなざしが独断的な正義感をたしなめ、自分とは異なる多様な価値観を持つ多くの人と力を合わせて問題の解決をはかるトレーニングを可能にすることでしょう。その姿勢は、社会人として求められる(就職活動の際に高く評価される)三つの基礎力、すなわち「前に踏み出す力」、「考え抜く力」、「チームで働く力」に確実に結びついていきます。本学法学部の学びの環境を、思う存分に、そして自由に羽ばたいて活用してくださることを心から願っています。